アゴラとかで話題になっている事もあり、つれづれなるままに教育の無駄について考えてみた。
■前提として自分の話
まず自分の教育(された)遍歴について。たぶん特殊。つまらなくてゴメンナサイ。
- 生まれも育ちも東京都
- 小学校、中学校、高校と都内の私立一貫校に通わせてもらった
- 古くは小学校受験のために、その後は小学生の3年生くらいからコンスタントに塾に通っていた
- もっとも頻度が高くて、週に6クラス+家庭教師1日という時があった
- 塾は、中堅〜大手学習塾(小学校だったら指導会とか、中学には行ってSEGとか)、小規模塾、個人塾など様々行かせてもらった。
- Z会とかもやったきがするけどああいうのは続かなかった。すいません。
- 大学は国立大学に一本受験し、現役合格。理系的なところ。
- 大学は合計で1年分くらいしか行っていない。中退しました。今はNGOで働いています。
正直いくらかかってるんだっていうくらいお金もかかってるし、それなのに「塾行きたくない〜」とかだだこねた記憶もあるので、それをなだめすかして、褒めておだてて通い続けさせてくれた両親へ、本当にありがとう。
それなのに入った大学を辞めるとか鬼畜としか思えない。大学は卒業すべし。積極的に勧めるのは休学までだよ!
■受験勉強と勉強に対する考え方
塾での受験勉強はその後の大学の授業との関連を考えても
- 勉強するという癖、習慣、楽しみを教えてくれた
- 小手先のテクニックではなく、数学なら数学のおもしろさなどを丁寧に知る事が出来た
- 自分が成長していく感じが体験できて自信になった
と言う体験を与えてくれたので個人的に評価しています。
一方学校では、部活や文化祭、生徒会などが一生の思い出となったし、チームワークや自分の甘さを体験する良い機会になった。
というかたまに6時限目が終わって生徒会から登校とかしていた。ゴメンナサイ。
授業をサボって生徒会室で寝ていたら先生に見つかって怒られたゴメンナサイ。
■結論めいた事。思った事
- 自分にとって学校教育で学業を習うのは質、効率が悪かった。僕にとっては「塾」という民間の仕組みが良かった
- カリキュラムなど一元的に決めて予算をつけて管理する公共事業だと、時代にそぐわなくなるんじゃないだろうか?それって税金の無駄遣いをしてないか?
- そのすれ違うエネルギーを色々な事に活かせればきっと効率が良いのに。
- なので下記のように教育制度を変えるのはどうだろうか?
- 学校の授業は民間業者から入札、購入し、競わせながら提供するか
- 義務教育時に利用者側にバウチャーを提供し、塾や学校などフラットに選べるようにする
- 最低でも学校同士の授業単位、志望校受験対策単位での連携を行い、効率を図る
■思い出した事
高校の数学の熱血先生に「青木、俺の授業ってつまらなかったか?」って卒業後に聞かれた事がある。
結構好きな先生だったので、切なそうにそう聞かれたときは、なぜか自分がショックを受けた。
その先生の授業にかける情熱は非常に好意的に受け止めていたし、骨太な授業をしているように感じた。
ただ、確かに僕にとっては新しい知識も無く、おもしろみに欠けた。というか態度が悪かったです。ごめんなさい。特にあの頃は自分がそれ出来るぜ、というのを醸し出さずにはいられないイタいやつだったので。うぅ。恥ずかしい。
ともかく、それは単に僕は塾で先にやっていたというだけの話。
そして、僕が受験を経てに入ろうと思ったとき、学校の授業だけでは厳しかったと思う。下記の点で。
公教育の駄目だったところ
- 僕の見てきた中では、学校の先生の能力が十分に高いと思えない
- たとえば数学、受験数学に対する理解が浅い
- 教え方が優れているか、人間としての尊敬できるかと言うと微妙
- 受験経験も社会経験もあまり無い
- カリキュラムも教科書も問題もテストもレベルが十分に高いとは思えない
- 結構感動する問題とか、実際に4回くらいといてみたくなる問題とか、別解を考えるのに競い合った問題とかそういうのがあまり無い
- 志望校をそろえる事が出来ない
- 年間50人(?)とか合格者を出している高校はいざ知らず、普通の公立、私立校では、特定に志望校で対策出来るほど人数がいないはず
- そのため、費用対効果を考えると、たとえば数学では全学年をレベルで4つに分けましょう、みたいな事になりがち。
- クラスの人数多すぎ
自分の経験を、過度に一般化するつもりも無いし、
いった塾がたまたま良かったのかもしれない。
その可能性はある。
ただ、さっきの考察と矛盾するかもしれないが、自分が一番お世話になった塾は、教えているのが現役の東大生という若者にもかかわらず圧倒的に質が良かった。それはたぶん
塾の良かったところ
- カリキュラム、教科書が良い
- 東大なら東大の事が良く分かっている(暗記系はほぼ無いので基本からきちんと理解せねば、など)
- 数学なら数学の事を本当に理解している人が書いている(SEGの社長みたいな人)
- 先生の能力が高い
教師として生きていくつもりは無くても、バイトとしてだったり、期間限定で教育に関わる事ができる優秀なリソースが社会にはある!!Teach for Americaだってそれを利用してるに違いない) - 塾は義務教育でないし乗り換えコストが低いので、評価が存在し競争が存在する
- 生徒が塾に来続けてもらうために必死
- (たぶんいった塾が特殊だったけど)学年じゃなくてレベルで分けていた。高一と高三が同じ授業を受けているとかもあった。
とかいろんな要素に支えられているように思う。あまり考察してないんだけど。
で、受験数学一つとっても、公教育にあのレベルに達するように思えない。だから、塾で学業をせねばと思うのはそれなりに妥当性がある。
■じゃあ何が問題か?1:教育格差から抜けられません
じゃあみんな塾に通えば、って通えませんよね。
松本さんがおっしゃるみたいに好きなサッカーが出来ないし、それ以上に普通お金をそんなにかけられません。
だから教育格差→生涯賃金の格差→次の世代の教育格差とかになって、貧富の格差が固定されやすい。
生まれた家の違いで受けられる教育の質が全然ちがくて、生涯賃金が統計的に差が出るとかなんなの、それと。(とはいっても統計的な妥当性は別に検証していないんだけど、どっかにソースがあるに違いない)
■じゃあ何が問題か?2:時間とお金とエネルギーの無駄遣いです!
あの数学の授業に出ていた僕の時間と、(40分の1くらいでも)僕に対して情熱をかけてくれた先生の時間には結構無駄が含まれていたと思う。
生産業とかだと乾いた雑巾を絞るくらいに無駄を削減するくせに、教育だと何でこんなに無駄が多いのかな。 とふと思った。
つまり教育にかけている税金に対して得られる効果が低くないですか?という話。税金の無駄遣い。
逆に言えば同じ教育効果をもっと安い税金で出せるかもしれない、という話。
税金はもう少し効果が超長期的で計りづらい、情操教育とか、国際交流とか、部活とかそういう事に使ったらいいと思う。受験とかセンター試験である程度効果が分かるような短期的なものは民間に競わせるべき。
ということで、下記の事を行えばもう少しマシになるんじゃないかな、と思ったので書きます。
■解決策1:最低でもやってほしい事
- 学校の先生は実力を認識して勉強して欲しい
- 良い学校の先生や、良い評判の塾の先生の授業などDVDで販売して見て欲しい
- 教科書とかカリキュラム開発にはもっとプロが関わるべき
- 授業に参加せずとも学業で十分なレベルを持っていれば単位を認定する
- 特に数学、英語、理科などのレベルがはかりやすい授業に限定して言うと、です。
- 情操教育とか、「出席させる事を通じて社会のルールを教えてるんだ」みたいのは授業参加以外の方法で代替できる。というか、もし万が一つまらない授業に無理矢理出されてたら悪影響です。
- 塾や他の学校との提携
- 和田中がSAPIX(だっけか?)入れたみたいに
- たとえば学区の中で志望校ごとにまとめたクラス作るとか。
■解決策2:コンテンツプロバイダーとしての塾や企業の利用。担い手として大学生の利用。
- 総合学習とかで少しずつ始まっている気がするけども、もっと徹底的に。
- 健康診断はお医者さん呼んでくるように、先生は塾から呼んでくればいい
- 特にインターネットを利用した授業を行う事で物理的な制約の解除、コストの削減を行うべし
- 生徒から先生の評価や、実際の点数や出席率がどう変化しているかで評価する仕組み
- 優秀な学生が、一生の仕事としてではないなら教育に関わりたいと思っている事は良くある。Teach for Americaもそうだし、確か教育の奨学金を自分で教えて返すみたいなビジネスモデルを最近聞いた。そういう人を利用すべし。大学の単位にしてもいいし、青年地方協力隊みたいにしたらどうでしょうか。
■解決策3:むしろバウチャーでユーザーに選ばせるのはどうか?
- 教育に対するニーズなど多様化する中でほとんど学校単位でしか授業を選べない
- 親が一番賢い選択をするとは言わないが、もう少し情報を提供した上で任せてしまった方が競争原理が働いて良いのではないか?
- バウチャーだけで学校に行く事も出来るし、バウチャー+α自分でお金を出せば塾にも行ける、とかそういう風に選べるようになるとよいのでは。
- 学校でしか提供しづらい、部活や文化祭、運動会や効果のはかりにくいマイナーな教科を学校でやったらどうか。まぁそれは必修にするとかバウチャーをあまり使わずにいけるとか政府が補助する必要があると思うけども。
調べて書いた物ではないので、「そんなものとっくに議論されて駄目だったから今の形におちついてるんだよ」とか「もうとっくにやってるわ」とか「はいはい外野は夢見てろよ」とかそういう事があれば教えてください。コメントしづらかったらTwitterとかで。教えてください。
バングラデシュでBRACというNGOがNon formal教育をものすごい規模で展開しているのを見て以来、教育は国の物という考えが無くなったので。
※ただ書いていてもう少し「受験」の方も変更する余地があるな、と思いました。
大学以外のキャリアパスを数多くつくり、それぞれを上下関係ではなくフラットな関係で語れる土壌を作ることが必要だと思います。教科教育の出来不出来だけで将来の資産が決まることのない社会であればドロップアウト=低収入ということも避けられますし。
ちなみに私は高校が県立でしたが大学受験への個別対応は完璧でした。塾にも行ったことがありませんが国立大学に合格できました。そんな公教育もあります。
投稿情報: Eric | 2010/02/09 14:20